医院について      M A P      Art Work      医学と芸術の旅      トップページ

40周年記念
66年 山岸 公夫 66年 平野 博志 66年 細野 邦昭 67年 和田壬三 68年 内藤 賦一 70年 伊藤 洋治 70年 武田   泰
71年 白矢 勝一 71年 細見 博志 73年 由利 修二 74年 前田 俊房 74年 吉筋 正雄 75年 新谷 一人 6年 西村 健二
                                                                                                                                                                     氏名の前に入寮年を併記


向ケ岡寮を出てから十年余り        71年入寮 細見 博志

 
 私が教養学部文料V類に入学したのは1968(昭和43)年のことですが、当時既に、入学生の家庭収入は慶応大学を越えている、と噂されていました。今ではその傾向は一層顕著になっているようですが、当時から、東大生の家庭環境はかなり良い、と言われていたものです。入学の年の6月から全学ストライキに突入し、授業の代わりに毎日クラス討論ばかりやっていました。翌1969(昭和44)年の入試は中止となり、本郷への進学は例年より半年遅れて1970(昭45)年10月となりました。結局2年半に渡る駒場での生活は、最初の1年半は代々木5丁目の小田急線参宮橋にある兵庫県県人寮(ここは2年を限度としていました)で、次の1年ほどは、京王線の笹塚の下宿で過ごし、本郷進学と同時に、千駄木の下宿に移りました。いずれも歩いて通学できる所を選んだのです。当時はコイン・ランドリーがまだ十分普及しておらず、洗濯に困って、時折、追分寮と向ケ岡寮の洗濯機を使わせてもらいに行ったものです。それが向ケ岡寮とのそもそもの「馴れ初め」です。ところが追分寮では、おばさんによる厳しい監視の目が光っており、見つかれば水道料金を50円請求されました。そうでなくとも、大通りに面しており、緑も豊かでなく、環境は如何にも劣悪に見えました。それに対して、向ケ岡寮では何事も大まかで、至極のんびりしているように思われました。1971(昭46)年4月からの新入寮生の募集があった時、迷うことなく向ケ岡寮に応募しました。
応募の時に後に東銀へ行った小谷普之さん(現サプリナ本舗店主)が安藤さんのおじさんに呼ばれて二寮の2階から分厚い眼鏡の顔を出し、急いで降りてきて説明してくれたと記憶しています。(当時の事を思い起こすと、いつも寮のあの見事な桜の、満開の時期であるかのように思われます。多少記憶の上で美化されているのかも分かりません。)
 入寮すると、同じ進学年度なのに、既に柳迫康夫君小佐古敏荘君が半年前から入寮していました。彼らは、僅かの募集人員の中をくぐり抜けてきた、といって、常々「寮のエリート」だと豪語していました。有園徹さんは前の選考ではねられ、仮宿でいたのが、今回晴れて入寮することとなったようです。概して入寮競争は厳しかった筈ですが、この年に私のように特別困窮しているものでない者が向ケ岡寮に入れたのは、ストライキの影響で入寮希望者が減ったせいではないか、と後から考えました。因みに、入学当初、仕送りを2万円してもらっていましたが、それは寮住まいの場合、アルバイトをしなくともやっていける観でした。
 入寮直前に、私は直接は知りませんが、西村栄起さんが、念願の司法試験に受かったのに心臓病の手術で亡くなり、寮には重苦しい雰囲気が漂っていました。また入って2年目だったか、
Tさんが御徒町の国電に飛び込むという惨事がありました。コンパでは、いつも「クーニャンの歌」を歌っていて極めて豪気・親分肌であった彼が、神経症を病み妄想に苦しめられていたとは全く知りませんでした。寮の娯楽室で祭壇を整え、郷里からお母さんとお姉さんが出てこられて、葬儀を執り行いました。横山さんの話では、西村さんの前には寮の部屋で、相棒が在室している時に縊死した人がいたということですし、またTさんの後には、かつて寮生だった某氏が自殺した、という噂を聞いています。入寮の頃は、その前後に、3年毎に、寮生が亡くなっていたこととなり、横山さんもよく冗談に、今度死人が出たらもう寮を辞める、とおっしゃっていたものでした。(後に大学院に入ったばかりの灰庭久博君が病気で、富士通に入社して郷里で病気静養中の蜂谷厚明君が事故で、亡くなりました。)
 当時は東大闘争の真っ最中、ではないとしてもまだその燠の燃えている頃で、学内は極めて殺伐荒涼としていましたが、寮では総じてのんびりとやっていました。上に挙げた
H君のように、外ではアクティブな活動家がいたとしても、寮は生活の場と割り切っていたようですし、またその割り切りの度合いは外でアクティブであると比例していた、とも言えるようです。駒場寮や豊島寮と異なり、60人程の小さな寮だということもあって、その寮委員会をどの派が占めるか、ということが政治的な意味を余り持たなかった、という事情もあったのかも知れません。それでも時折寮生大会で激しいやりとりに及ぶこともありました。確か私が議長の時だと思いますが、経常費から茶菓子を出すことにして、お茶を飲み菓子をつまみながら議論するようにしたことがありました。何度か実行されたと思います、武田泰さんから、仲良し討論会でもあるまいし、というような調子でひやかされたこともありました。安田講堂の前で母親たちがキャンディーを配って学生を説得した、というニュースが冷笑の的となった頃のことです。私の意図は、徒に融和を計ることにあったのではなく、冷静に穏やかに、鋭い論理をお互いに戦わせる、いわば、野良犬の喧嘩のように感情的になるのではなく、鳴き声も呻き声もあげずに無言のまま切り結ぶ狼同士の戦いを論理の上で行うことを期待したのです。しかし、どの程度効があったかは自ずと別問題です。また民青系の三宅寛さんが寮委員長となった時、彼に請われて、共闘シンパの柳迫君が逡巡しながらも副委員長になった、ということもありました。寮生大会で政治的な議論になったことは、余りはっきり記憶にはないのですが、1つ挙げるとすれば、窃盗事件を契機に警察の導入の是非を巡って争ったことがありました。一寮2階にいた山内健二君ともう1人誰かの部屋に泥棒が入った、ということがあり、その取調べのために警察官が寮に立入り調査をしたのです。そのことを巡って、小谷和夫君が警察官導入を鋭く批判したことがあり、山内君は、それでは被害者は泣き寝入りせねばならないのか、と言っていましたし、また武田泰さんは、自らは警察官導入を小谷君以上に拒否しながら、小谷君の警察官導入拒否の論拠が脆弱だ、と「絡んで」いました。しかしながら武田さんも、その時はそれ以上の論理は展開できずに終わりました。
 個別的な思い出を連ねていくと、いくらでも懐かしい思い出が湧き上がってきますが、しかしそれではきりがありません。今1978(昭53)年編集の名簿を見ていますが、私の入寮前後に、色々懐かしい名前が掲げられています。後に「
S怪人」と称されたSさんは、確か私よりも早い入寮の筈です。あるいは、「K人間」と称されたK君は、一寮2階に住んでいたのですが、自分の部屋で素っ裸になって、洗面器だけを持って、1階はずれの浴室まですたすたやってきたものです。彼に言わせると、どうせ裸になるのだから、どこでなろうと同じ、夏などは却ってほとぼりも冷める、のだそうです。しかし、こちらが食堂から引き上げてくる途中で、胴長で典型的日本人スタイルがサンダルだけ履いているのに出くわすのは、余り消化に良いものでなかったことは確かです。この他に、当時既にカリスマ的な迫力のあった合気道の藤森明さんは、当然「向ケ岡寮紳士録」の第1責を飾るべさ存在ですが、他に、思い出すままにあげれば、空手の駒場豊さん、今でこそ立派な弁譲士ですが、当時はいつも酔って騒いでいた、という印象があります。いつぞやなどは、酔った勢いで1升瓶を娯楽室から投げ割ったことがありましたし、また森本俊彦さんは、彼の逸物を嘗めさせられた、とこぼしていました。藤森、森本さんらは、竹谷仁一さんらとともに、昭和1桁世代で当時既に中年、私(たち?)は密かに(あるいは公然と?)「花の中年トリオ」と呼んでいましたが、遅れて桑野嘉聡さんが加わって、カルテットとなりました。また、私は中庭で吉岡大忠さんとテニスのボレーをやっていたことがあります。今ではテニス気違いの横山さんですが、当時小学生の娘さんと軟式テニスを始めたばかりで、このことが、横山さんが初めて硬式テニスに触れるさっかけとなった筈です。

 これを機会に、幾つか自分にとって触れるのが辛いことにも言及しておきたいと思います。 私は最初一寮の4室で、上田昇三君と同室でしたが、翌1972(昭47)年に、農学部大学院だった千川明さんが豊島寮に移った後釜として、二寮2階の松島道博さんの部屋に移りました。松島さんは広島県の山間の村の出身で、そこでは「寝る」ことを今でも「大殿籠る」といぅ、という話は話半分としても、貧しい中で良く苦学し、京大工学部3回生の時に東大文1に代わった、ということでした。当時も宿直のバイトをしながら、司法試験を目指していました。彼とは結構仲良くやっていたつもりでしたが、彼は1年程で下宿に代わって行さました。その後に秋田大学鉱山学部を卒業して資源開発の大学院に入った秋久国男君が相棒となり、彼とはその後5年間同室で過ごしました。最後の1年間は斉藤(弟)君と1緒でした。今計算しますと、昭46年4月から昭54年3月まで御世話になった訳ですから、丸8年間いたことになります。
 松島さんが寮を出ることになったのは、後になって横山さんの話を聞くと−それも最近知ったのです、如何に当時自分が独善的だったかと感じます−、どうも私の所に訪れる友人が多すぎた、ということらしいのです。私は灘高出身で、東大には当然極めて大勢知り合いがいますし、また後に横山さんを中心に始まることとなる向陵テニス・クラブの、その仲間ともしょっちゅう行き来がありました。私としてはそれなりに迷惑にならないよう気を使っていたつもりですが、やはり勉強の妨げとなったのかな、と思います。もっとも、松島さんも私の友人の多くと仲良くなっていましたから、その点では決して迷惑ばかりではなかったでしょう。いずれにせよ、彼の場合は、下宿に移ってから数年で試験に合格しましたから、結果良ければ全て良し、という訳ではありませんが、彼も許してくれるのでは、と思っています。
 1番辛かったことは、昭51年か昭52年の頃のことです。落合義治君が寮祭の実行委員長をしていた時、先輩に寄付を募るのに、手ぶらでせびるのは余りに虫が良すぎる、と思ったので、寮の歴史を編集して、それを手土産に寄付を募れば良いだろう、また自分もその編集を手伝うつもりでいる、と提案したことがあります。当時私は人文系大学院(西洋倫理思想史)の博士課程の入学試験に落とされ、朝から晩までその試験に備えて論文の作成に追われており、時間的精神的余裕は全くありませんでした。しかし手伝い位ならさほどの事はあるまい、と考えたのです。しかし、寮生大会では、編集に携わるべき人物を全く決めないまま、提案は了承されました。従って、自ずから、私が中心になってやるべきもの、という雰囲気になってしまったのです。また当時議長か書記をしていた山内正雄君の記録では、はっきりと−これは不正確な記録だと思いますが、−「私を中心にして」、となっていたとのことです。その記録が正確か否かは別として、あの状況では、寮生にそのように受け取られたとしてもしょうがないことだろうと今にして思います。結局、自分は動けない、時間は迫る、挙げ句の果てに、次の寮生大会では、私は開さ直って「提案したものがいつも責任を引き受けなければならないと言うのですか」などと口走ってしまったのです。それに対して山内君が先回の(私には不正確と思われる)議事録を紹介する、となり、この件は暗礁に乗り上げて終わりとなってしまいました。戸部久三君が僅かにとりなしの発言をしてくれましたが、それも含めて、皆の視線が私に無言の批判を投げ掛けているのを、痛いはど感じていました。このことは十年以上経った今も自分の心に、刺となって残っています。また、自分の言った事には責任を取らなければならない、ということを、骨身に染みて教わることとなり ました。

 東大生の家庭の平均収入は当時既に慶応大学を抜いていたらしい、と書きましたが、しかしこと向ケ岡寮に関する限り、極めて貧しい家庭の人々が大部分で、貧しき者のふきだまり、といってもよいような観を呈していました。その意味で、「寮のエリート」とは、実際上は東大における「逆エリート」に他ならなかったのです。1度コール・アカデミーの演奏会を聞きに確か上野の文化会館に行った時、普段寮生活で見慣れた人々と違う種類の観客を見て、気後れを感じたものです。そんな大袈裟な、と言われるかも知れませんが、その家族やガール・フレンドを見ていると、私などがそれまで寮で見知ったのとは違う人種である、と思われました。同じ東大の学生をしていても、全く違う生活と階級がある、ということをその時初めてありありと感じたものです。
 寮では多くの寮生が、仕送りなしで生活していました。もっともそれも、寮にいる限り、そんなに難しい事ではありませんでした。安い寮費、月千円の授業料(それもしばしば免除されました)、また家庭教師のようなバイトも見つけやすく、奨学金も多くはもらっていました。特に大学院の奨学金は、比較的高額でした。私も、それまで2万円の仕送りを受けていましたが、昭48年に大学院に入って仕送りなしで生活するようになりました。それが極当たり前のことでした。中には前田孝一君のように、その奨学金を逆に仕送りして家庭での住宅資金に充当している人もいました。また藤田英樹さんは、妹さんが大学に行って教員になれるように仕送りしていたことがありました。
 総じて貧しくとも意気軒昂に暮らしていた、と言いたい所ですが、それでも司法浪人などで年齢が嵩んだり、またそもそもそれまでの経歴が紆余曲折を経ていたりして、奨学金は当たらず、免除も勿論当たらず、他方でバイトの時間も惜しんで勉強せねばならない、というような場合、現実には楽な生活ではなかった筈です。多くの寮生が、必ずしも志通りの道を歩むことができませんでした。司法試験は難しい、といっても、金で解決できる部分も大きいと思います。もし当時百万、二百万の金があって、2、3年ひたすら勉強に打ち込める環境にあれば、きっと何とかなったのでは、と考えられるケースが幾つもあることでしょう。勿論、学生時代の不如意がそのまま社会人としての不遇に直結する、というものではありません。例えば「寮のエリート」を豪語していた小佐古君は、東大原子核研の助教授として文字通り社会のエリー卜になっています。しかし多くの−東大生の割には多くの−寮生が、その人格的内容は別にしても、必ずしも志通りの人生を送れなかった、と言えるでしょう。しかし、そのような寮生こそ、向ケ岡寮には長期に渡って在寮し、「向ケ岡寮紳士録」の重要な1頁を飾る人士であったのです。何も順風満帆にキャリアを積んでいった人を嫉むつもりはありませんが、そのような人は必然的に寮で生活する期間が短くなる−2年が短い訳ではなく、本当は当然なのですが−ために、後輩に与える影響は小さくならざるを得ません。それに対して、向ケ岡寮では、こんな人も東大生なの、といわれるような人がごろごろしていたのです。そのような人から、私は、大学から学ぶ以上のことを学んだような気がします。 もしも向ケ岡寮に入らなければ、自分の考え方や見方が、いまと違ってもっと狭いものになっていただろうと思います。さっと、小きい時から、秀才だとかエリートだとかいわれてちやほやされるのに慣れ切って、鼻持ちならない臭さをふんぶんとさせていただろうと思います。あるいはどこかでそのようなエリー卜の道から外れて、ひたすら鬱々とルサンチマンを醗酵させることになったかとも思います。今の自分は、そういった社会のエリー卜に対しても、比較的わだかまりなく即物的に対応できるし、また日の当たらない所にいる人に対してもそのことをもって軽んじないで対処できる−できる、と言うよりも、そうできるような人になりたい、と願っているのですが、そのような希望を抱くようになったのも、やはり向ケ岡寮での体験に負う所が大きいと思います。あの寮の生活を通して、社会的なキャリアと豊かな人間性は別であるということを教わった訳です。勿論一致する場合もあるでしょうが、問題は、一致しない場合もある、ということです。それは言葉を換えれば、権成に阿らない、人を顎で使わない、ということですし、あるいは、虎の威を借る狐や飼い主に尾を振る飼犬にならない、ということでもあります。寮生活の体験が、このような形で今も自分の人格に影響を及ぼしている、と、多少自らの希望を込めながらも、自覚しています。
 最後になりましたが、人生の最も充実した時期を8年間も向ケ岡寮に過ごし、朝な夕なにまるで家族の一員のように世話をしてくれた横山さん御夫婦のことを想い起こすと、懐かしくて思わず涙腺が潤みます。また安藤さんや菊池さんも忘れられない方々です。言葉は尽くせませんが、お元気でお過ごし下さるよう、祈り申し上げます。


66年 山岸 公夫 66年 平野 博志 66年 細野 邦昭 67年 和田壬三 68年 内藤 賦一 70年 伊藤 洋治 70年 武田   泰
71年 白矢 勝一 71年 細見 博志 73年 由利 修二 74年 前田 俊房 74年 吉筋 正雄 75年 新谷 一人 6年 西村 健二
                                                                                                                                                                     氏名の前に入寮年を併記
40周年記念

医院について      M A P      Art Work      医学と芸術の旅      トップページ