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| 【大学入学】 | 昭和42年4月、東京大学文Tに入学した枡添くん。クラスLTU17D。 教室には南京豆のような丸坊主頭で学生服を着て、皮のカバンをもって現れ 皆の敬遠する一番前の先生の前の席にいつも座っていた。 その勉強振りは凄まじく、眼光はいつもギラギラしていました。 同学年には、オッボチャマ貴族の鳩山氏(弟の方)もいましたが ジーサンや親の七光りでなく、 「ジバン(地盤)」、「カンバン(看板)」、「カバン(鞄)」も何もないのに 努力と実力で参議院議員になったのは、なかなか偉いですね。 |
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| 【貧乏下宿生活】 | 貧乏であったので、はじめは極貧学生のみが入寮できる三鷹寮にいましたが その後、学芸大学前の三畳の下宿に移りました。 無論、部屋にはトイレ、風呂、炊事場はなし。 玄関を開け階段を上ると三畳の部屋、 机と本で部屋はいっぱい、空いている場所は寝る場所一畳だけ。 天井も本棚になっていた。ご自慢は小さな12Wのステレオ。 |
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| 【凄まじい勉強】 | 森鴎外が毛布を被って明け方まで勉強していたとの話を 何かで読んだことがあるが舛添君の勉強も凄まじかった。 毎朝5時起床、New York Timesを一時間半ほど読むことから一日は始まる。 |
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| 【中道右派】 【殴打事件】 |
大学紛争中、舛添君が革マル派であったなどと、インターネットのブログで 誰かがデタラメを書いてのをみたことがありますがが、真っ赤な嘘。 舛添君は、スト解除派であった学生懇談会系の学生協議会のリーダーでした。 そのため、革マルか青解か何かよく知りませんが、全共闘派に角棒で襲われ、 顔を殴打されて入院、しばらくの間、上あごと下あごが噛みあわず、 口がふさがりませんでした。 |
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| 【母に仕送り】 |
舛添くんは北九州の八幡高校の出身である。 姉二人いて彼は末っ子と言っていたように記憶している。 父親が早逝したそうで、母子家庭で貧乏な家庭であった。 奨学金をもらいアルバイトをし、刻苦勉励しながら 母親に仕送りしていたのだから、なかなかの孝行息子でもあった。 後に母にむつき(オムツ)・・・云々という本も書いて 印税で立派なお墓も建ててあげたのであろう。 |
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| 【桝添くんの野望】 | 「俺の亡くなった父親は政治家であった。」 「俺は必ずアメリカのキッシンジャーのようになるぞ。」 これが20歳前のの桝添くんの口癖であった。 最近知ったことだが、舛添君の父上は舛添弥二郎という名で 戦前の1930年に若松の市会議員に立候補した人らしい。 |
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| 【語学堪能】 | 入学時から英語はうまく、夏休みにはフランス語もしゃべれるようになっていた。 英語は高校時代にキリスト教会に通い、習得したそうです。 一年の夏休み中に当時流行したゴーゴーバー(新宿三光町のノアノアという店)に 連れて行ったところ、フランス人と見られる男性を見つけ、フランス語で流暢に 話してしていました。 筆者も、30年前、500円で舛添君にフランス語のレポートを書いてもらい、 フランス語の富永教授に提出、無事進級といいう恩恵を蒙った思い出がある。 専攻は国際政治学、語学堪能なので日本のキッシンジャーになれるかも。 早く外務大臣になって欲しいものです。 |
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| 【趣味】 | 健康維持と趣味を兼ねて、週一〜二回、駒場寮の友人の部屋で スパイクに履き替えて運動場で走り回っていた。 高校時代に陸上部だったようだ。これ以外は勉強が趣味のようでありました。 タレントになってからは、別荘生活や競馬主の貴族的な趣味を吹聴していたが、 庶民感覚からはやや乖離し、筆者にはやや滑稽な感じがしないでもなかった。 一人の命は地球よりも重いとか、よく言っていたのだから、 貧乏庶民のための宰相を目指して欲しいものです。 |
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| 【勉学内容】 【上昇志向】 |
To be continued | |||
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